生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ
どうもどうも、大変ご無沙汰しております。
かなりお久しぶりなので、今回は2本連続で書きます。がんばる。
ではまず、先日行ってきた
「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」について。
エドワード・ゴーリーという絵本作家の原画展に、会期最終日に滑り込みしてきました。
私とゴーリーの出逢いは10年ほど前。
当時学生でクソサブカル女だった私は、サブカル人間の巣窟(?)ヴィレッジヴァンガードで彼の作品を見つけました。
面白そう、と思ってまず手に取った作品が
「題のない本」
これがまずかった。
この作品、ゴーリーの中でも玄人向けの作品でして。
文章は全て訳の分からない擬音語のみ。
定点カメラのように視点の一切変わらないイラストは、謎の生き物が庭で遊んだり飛んだりしてるだけ。
もう完全に頭の中「????」です。
理解が追いつかずその時はその本をそっとその場において離れました。
時は流れて数ヶ月前。
YouTubeのおすすめ動画に突如現れたのが「中田敦彦のエクストリーム文学」
これがめちゃくちゃわかりやすい上に、一気にゴーリーの魅力にどっぷり。
これを見た後ならあの「題のない本」もちょっとは理解出来る。
"理解しなくていいということ"が理解できる。うん。
そんな訳でこの「優雅な秘密」展が始まったと聞いてうずうずしていたのです。
ようやく来れたーー!
最終日だからかめちゃくちゃ混んでました。
「原画」ってやっぱすごいんですよ。
見れば見るほど吸い込まれそうになる繊細な筆致。
シンプルなのにしっかり"死んでる"表情。
奇妙なのに憎めないキャラクターたち。
これがまたたまらないんですよね…。
ゴーリーの作品はシュールという言葉では片付けきれないほど、呆気なく人は死ぬし、ナチュラルに人が不幸になるんですけど、何故そう言う作品を書くのか、という質問に
『私はとにかく不安になるものを描かないとと思っている。なぜなら人生は不安なものだから』
と答えたと展示されてて、それがやけに印象的で。
だから突拍子もない展開の話でも、何だか妙にリアルを感じたりする。
それがエドワード・ゴーリーなんだなぁと。
あとこのゴーリー作品を語る上で、日本人が忘れてはいけない人物が、柴田元幸さん。
数々のゴーリー作品の翻訳を手掛けてる方なんですが。
例えばこの、「うろんな客」という作品。
表紙に描いてある「うろんちゃん(通称)」という謎の生き物が、とある一家に居座るというストーリーなのですが、原文は韻を踏んでるリズム命の作品で。
ただ原文をそのまま直訳するだけだと、原文で味わえるリズム感が損なわれてしまう!と考えた柴田氏が編み出した翻訳方法は「短歌」。
例えば
When they answered the bell on that wild winter night,
There was no one expected—and no one in sight.日本語訳:風強く 客もなきはず 冬の夜 ベルは鳴れども 人影皆無
この発想、すごくない…??
今まで海外作品を翻訳したものは原文の手触りが分からなくなるから読まない、と思ってたんだけど、ここまでしてくれるなら読むわ…。
そして展示室の出口近くには、ゴーリーの代表作品が実際に読めるスペースがあって。
ひと通り原画見たあと、製本されたものを見るとまた違った感じ方になるんだ、という新たな発見。
そこで私が読んだのが「蒼い時」。
ストーリーというよりも、詩集のような作品なんですけど、そこでやけに心に刺さった一文が。
生きることじゃなくて、生きてもらうことが大事なんだ。
そのひとこと、他のいくつかと一緒に 書き留めておかなくちゃ。
何か、なにがどう、って訳でもないんですけど。
「生きてもらうこと」かぁ…と思いまして。
自分自身に対してもいい意味でどこか他人行儀なゴーリーらしい文章だなと。
読後が何だか凄くスッキリ。
目を逸らしたくなるような作品ばかり見てるのに、展示室を出たあとは身体中の毒素が抜け切った、そんな感覚。
この感覚、なかなか体験出来ないんじゃないかなぁ。
兎にも角にも足を伸ばして行ってよかった、と思える原画展でした。
また原画が見れる機会がありますように。
そして私はゴーリー作品をそろそろ集めないとという使命感に駆られてます。買うぞ。ふぁい!